松本人志「訴訟取り下げ」への批判が“気持ち悪い”…「たかが週刊誌」に踊らされる人が知らない「性加害報道の実態」
窪田順生:ノンフィクションライター 社会 情報戦の裏側 2024.11.14 6:30
自身の性加害疑惑を報じた「週刊文春」への訴訟を取り下げた松本人志氏 Photo:JIJI
松本人志「訴訟取り下げ」で新たな火種勃発!
松本人志さんが叩かれている。
週刊文春を相手に「徹底抗戦」を表明して、訴訟に集中するということで芸能活動も休止していたにもかかわらず、その裁判がいよいよ始まるというタイミングで訴えを取り下げて「謝罪」をしたことが、「負けを認めたようなもの」「これで芸能界復帰などあり得ない」などと批判を浴びているのだ。
それだけではない。性加害や性犯罪撲滅を願う人々が、この取り下げという対応に怒りを爆発させており、その中には、松本さんへの憎悪が強すぎて、SNSで「真偽不明の告発」に踏み切った方までいるのだ。
11月12日、元アイドルグループ「アイドリング!!!」の元リーダーである遠藤舞さんはXで「私の直の友人が松本氏らからホテルで性加害を受けています」と爆弾発言をした。
投稿によれば、この告発は今年1月からやんわりと言い続けていたが、今回の訴訟取り下げで松本さんの性加害が「揉み消されそうになっている」と感じたそうで、いてもたってもいられなくなったそうだ。
翌13日、SNSユーザーらとのやりとりで、この友人とは現在疎遠になってしまったと明かしたことで批判され、「私も現在真偽不明の所を断定する形で発言してしまった点は軽率でした。申し訳ございません」と謝罪しているが、裏を返せばそのような軽率な投稿をしてしまうほど、松本さんへの憎悪が強かったということである。
「当たり前だろ!せっかく文春砲が卑劣な犯罪を明らかにしてくれたのに、こんな形でウヤムヤにされることなど許されるか、本人が罪を自白して償うまで徹底的に叩くべきだ!」
そんな怒りの声があちこちから聞こえてきそうだが正直、かつて週刊誌や月刊誌の編集部に身を置いて、性加害報道に携わっていた人間からすると、このムードはかなり恐ろしい。
投稿の内容
「文春砲」に踊らされる人が見逃している「最重要論点」
本連載でも繰り返し述べているが、週刊文春の取材は確かにすごいのだけれど、犯罪捜査をする専門機関ではない。「たかが週刊誌」なので、間違えることもあれば、裏付けの取れていない話を報じてしまうこともあれば、「売れる」ために意図的に読者の溜飲を下げる方向へ論調を曲げることもある。
例えば、自民党の松下新平参院議員が、ある女性と男女関係にあると報じた文春記事で名誉を傷つけられたとして争っている名誉毀損裁判では、一審で裁判所はこんな判断をした。
「情報提供に安易に依拠して男女関係があると決めつけ、客観的な裏付けを欠いたまま記事を掲載した」(朝日新聞デジタル 9月6日)
こういう話は例を挙げればキリがない。そんな週刊誌が報じた「疑惑」だけで、1人の人間を犯罪者と決めつけて、ネットやSNSで公然と罵り、仕事を奪えと叫び、さらなる「正義の裁き」を求めるこのムードは、背筋に冷たいものが走るし、もっと言うと気持ち悪い。
松本さんへの「正当な裁き」を望む善良な人たちの多くが、被害者の証言は100%の信頼で支持しているのに、「強制性の有無を直接に示す物的証拠はない」という事実は無視している。
「性加害を受けたと被害を訴えている人を応援・支援しよう」という正義の心を持っている人たちなのだから常識的に考えれば、社会の不条理・不平等は許せないはずだ。ならば、「物的証拠がない」という事実も同じように重視して、「確かに被害を訴えている人はいるが、その被害を裏付ける証拠もないので断定はできない」という慎重な態度になるはずだ。しかし、善良の人の多くはそうはなっておらず、松本さんを棍棒で袋叩きにしそうなほど攻撃的だ。
実際、「#松本人志をテレビに出すな」というハッシュタグが約半日で10万件を超えて投稿され、トレンド入りしたそうだ。
「公序良俗に反する者を裁くには証拠などなくてもタレコミだけで十分」というスキームが許されるなら、「被害」さえつくれば誰でも葬り去れる「魔女狩り」が横行してしまう。
という話をすると決まって「この問題は多くの女性が被害の声をあげていることがポイントだ、そんなこともわからないのか」というお叱りを受けるのだが、その多くの被害者たちが、刑事告訴や民事訴訟をしているのならば、ご指摘の通りだと思う。
有名ジャーナリストから性的暴行を受けたとして法廷で争った伊藤詩織さんや、大阪地検のトップの検事正(当時)から性的暴行を受けたと刑事告訴した検察官のような方が多数いたら、筆者も「#松本人志をテレビに出すな」に賛同している。犯罪者が法の裁きを受けるのは当然だ。
しかし、今のところ「被害」の実態は、警察でも法廷でも語られず、文春記者相手だけにしか語られておらず、第三者は確認しようがない。この不公平な状態で、松本さんを犯罪者認定して社会的に葬り去ろうというのはあまりにも「雑」だ。
文春記者が信用できないとかなんとかいう話ではない。今回の松本さんの性加害報道は週刊誌スクープだ。これは言い換えれば「リーク」である。リークというのは、何かしらの「意図」がつきまとう、というのが週刊誌報道の常識だからだ。
週刊誌記者が明かす「性加害報道のつくり方」
一体どういうことかわかっていただくため、私自身が関わった性加害報道を例に説明しよう。
今から20年ほど前、実話誌編集者だった頃、信頼のおけるライターさんから、某大物自民党国会議員の性加害疑惑のネタが提案された。
今回の松本さんのケースと同様で、物的証拠はないが、「被害者」をしっかりと抱え込んでいるという。もし名誉毀損で訴えられたとしても、公共性はあるし、被害者自身の訴えなので、真実と信じる相当な理由がある。
そこに加えて、心強かったのはこの疑惑が既に、業界では知る人ぞ知る大物ジャーナリストも取材に動いていて、性加害を匂わすような情報を「砲」のつく大手週刊誌が記事化していたからだ。
しかし、結論から先に言ってしまうと、これは「ガセ」だった。
自民党議員から内容証明が届くと、私は訴訟の準備もあるので、被害者の方からさらなる証言を得ようと会わせてくれ、とライターさんにお願いした。しかし、やはり性加害で心の傷が癒えていないということで、性加害の実態を知るご家族の方が代理でやってきたのである。
そこでこの人から事情を聞いたのだが、どうもいろいろと話の辻褄が合わない。そこで、さらに突っ込んで話を聞いていくと、実は被害者の方が性加害を受けた事実はないという。両者に性的な関係があったようだが、そのエピソードを大袈裟に盛ってしまったという。
なぜそんなことをしたのかというと、ご家族の方が、自民党議員とトラブルを抱えていて、政治家としての信用をおとしめたかったからだという。ネット掲示板に悪口を書き込むようなノリで、知人に語っていたら、それを有名ジャーナリストがかぎつけ、引っ込みがつかなくなってしまったというのである。
この事実を突き止めた筆者はすぐに自民党議員と和解し、雑誌に謝罪広告を載せた。しかし、大手週刊誌の方はまだ気づいていないのか、今さら引くに引けなかったのかわからないが、この自民党議員と長きにわたる法廷闘争を続けて結局、負けていた。
これは個人的な体験だが、似たような話はこの世界に山ほどある。ただ、断っておくが、週刊誌などデタラメばかりなどと言いたいわけではない。
テレビ、新聞、週刊誌といろいろなメディアで働いてきたが、週刊誌記者は皆さんが思っている以上に、深い取材をしているし、事実確認に時間をかけている。特に文春などは他誌を圧倒するほどの人員や時間をかけて「裏取り」をしている。
ただ、そこまでしっかりと取材をしても、「性加害の被害者の証言」の裏を取ることは難しい。当たり前だ。密室で起きていることなので、動画や音声もない。暴行を受けたということならば、傷の写真や診断書が有力な証拠になるが、数年前の性行為についての強制性を確かめる術はない。
そうなると、「被害者を信じる」ということしかない。これが週刊誌が性加害を扱うことの限界であり、問題である。
自民党議員から内容証明が届くと、私は訴訟の準備もあるので、被害者の方からさらなる証言を得ようと会わせてくれ、とライターさんにお願いした。しかし、やはり性加害で心の傷が癒えていないということで、性加害の実態を知るご家族の方が代理でやってきたのである。
そこでこの人から事情を聞いたのだが、どうもいろいろと話の辻褄が合わない。そこで、さらに突っ込んで話を聞いていくと、実は被害者の方が性加害を受けた事実はないという。両者に性的な関係があったようだが、そのエピソードを大袈裟に盛ってしまったという。
なぜそんなことをしたのかというと、ご家族の方が、自民党議員とトラブルを抱えていて、政治家としての信用をおとしめたかったからだという。ネット掲示板に悪口を書き込むようなノリで、知人に語っていたら、それを有名ジャーナリストがかぎつけ、引っ込みがつかなくなってしまったというのである。
この事実を突き止めた筆者はすぐに自民党議員と和解し、雑誌に謝罪広告を載せた。しかし、大手週刊誌の方はまだ気づいていないのか、今さら引くに引けなかったのかわからないが、この自民党議員と長きにわたる法廷闘争を続けて結局、負けていた。
これは個人的な体験だが、似たような話はこの世界に山ほどある。ただ、断っておくが、週刊誌などデタラメばかりなどと言いたいわけではない。
テレビ、新聞、週刊誌といろいろなメディアで働いてきたが、週刊誌記者は皆さんが思っている以上に、深い取材をしているし、事実確認に時間をかけている。特に文春などは他誌を圧倒するほどの人員や時間をかけて「裏取り」をしている。
ただ、そこまでしっかりと取材をしても、「性加害の被害者の証言」の裏を取ることは難しい。当たり前だ。密室で起きていることなので、動画や音声もない。暴行を受けたということならば、傷の写真や診断書が有力な証拠になるが、数年前の性行為についての強制性を確かめる術はない。
そうなると、「被害者を信じる」ということしかない。これが週刊誌が性加害を扱うことの限界であり、問題である。
もちろん、本当にひどい性加害にあった被害者の方が誌面で告発をすることもある。それによって、社会が動き、加害者が裁かれることもある。しかし、その一方で何かしらの「意図」があって、このような話を週刊誌に持ち込む人たちがいるのも事実だ。
例えばちょっと前、「週刊新潮」でサッカー日本代表の伊藤純也選手の性加害疑惑が報道されたが、伊東選手側は女性側に何かしらの「意図」があったと主張。女性側に計約2億円の損害賠償を求め提訴した他、新潮の編集者らも名誉毀損容疑で刑事告訴している。
「性加害疑惑報道」というのはそれほど難しい。そのような現実がある中で、「文春にたくさん被害者の話が掲載されているからアウトね」というのはあまりにも「雑」だと思わないか。
マスコミ報道につきまとう「正義の暴走」
もうお亡くなりになったが、私の友人に三浦和義さんという方がいた。奥さんに保険金をかけてアメリカ・ロサンゼルスで銃殺したのではないか、という「ロス疑惑」で1980年代に日本中から「殺人犯」と叩かれた人だ。
この火付け役も「文春砲」だった。「疑惑の銃弾」という連載を始めると、マスコミ全社が後追いして三浦さんの過去、交友関係、女性関係などを執拗に取り上げて、犯罪者イメージを広めた。当時はBPOなんてないのでメディアリンチは凄まじく、マスコミには「私も保険金をかけられて殺されそうになった」と訴える女性や、「私は犯された」という被害者が次々と現れて、被害者同士で座談会をさせるようなワイドショーもあった。
しかし、最終的に三浦さんは「無罪」となり、自分についてお祭り騒ぎで報じたマスコミを片っ端に訴えた。すると、あれほど溢れた「被害者」の皆さんはいつの間にか姿を消した。もちろん、マスコミはそんな話は蒸し返さない。後年、三浦さんにこの不思議な現象について聞いたら、「被害者」の多くは、会った記憶もない、見知らぬ女性たちだったという。
売名、ヤラセ、いろいろな言葉が浮かぶかもしれないが、事件記者をやっていると、こういう現象にはちょくちょく遭遇する。「悪いやつを懲らしめるんだから、ちょっとくらい話を盛ってもいいだろ」と話を盛ってしまう。どうせ犯罪者なんだからわからないだろ、と伝聞した噂を自分が経験したことのように語ってしまう。大きな事件現場では、そんな「善意の告発者」がたくさんいるものなのだ。
マスコミ報道にはこういう「正義の暴走」がつきものだ。そこで大切なのは批判されている当事者からも話を聞くことだ。筆者が「反社会的団体」「壺カルト」などとボロカスに叩かれている旧統一教会の現役信者たちに取材を続けるのも、それが理由だ。
週刊誌記者時代、文春の「疑惑の銃弾」事件班にいた先輩にお世話になった。ご本人曰く、文春編集部に寄せられた三浦さんに関するタレコミ電話を最初に取ったのは自分だ、という。
その先輩記者に三浦さんとの対談企画を提案したことがある。三浦さんの方は大喜びで、「もう互いに喧嘩するとかではなく、なんでああいう報道になったとか聞いてみたいです」と子どものように目を輝かせていた。
しかし、先輩記者側から断られてしまった。「あいつは嘘つきで話なんてしてもしょうがない。お前もあいつの口車にのって殺されないように気をつけろ」というのが理由だった。それを伝えたとき、「しょうがないですね」と寂しそうな顔をしていた三浦さんの顔が今でも忘れられない。
性加害を憎む人たちが、松本さんに憎悪を抱く気持ちもよくわかる。
しかし、これはあくまで週刊誌が報じた「疑惑」なのだ。物的証拠もなく、「疑惑の人」本人からの釈明も聞いていないこの段階で「犯罪者」扱いをして世論が裁きを下す、というのは、さすがに正義の暴走が過ぎる。被害者の訴えは尊重すべきだが、だからといって週刊誌記事だけで、袋叩きにされて名誉も仕事も奪われるような社会は、どう考えても健全ではない。
おそらく三浦さんが生きていたら、間違いなくそのような主張をして、松本さんの擁護にまわっていたのではないだろうか。
(ノンフィクションライター 窪田順生)
松本人志氏「訴訟取り下げ」の謎を一刀両断、世の中の報道は誤解だらけ
2024.11.13 8:00
松本人志氏の訴訟取り下げについて、世間で言われていることはどこまで正しいのか Photo:AFLO
松本人志氏、急転直下の訴訟取り下げ世間に出回る憶測は本当か?
松本人志氏の訴訟取り下げが話題になっています。
私は週刊文春の元編集長ですが、現在の編集部とは一切連絡を絶っています。ですから文春側の人間としてではなく、週刊誌の名誉棄損裁判を多く経験した者として、一連の報道について「間違っている点」をダイヤモンド・オンラインで4回にわたって指摘してきました(記事末を参照)。
それらの記事で私が松本氏に対して忠告していたことは、結局、すべて当たっていました。
(1) この裁判は厳しい。不同意性交の「不同意」の部分について、あまりにも松本氏の理解が乏しいまま、全面戦争に突入している。
(2) 報道では裁判は長く続くと言われているが、今の裁判は裁判官が和解交渉によって短期間で終わらせる傾向が強いので、証人尋問などが終わらないうちに和解提案が行われ、早期に結論を出さねばならなくなる。
(3) 裁判の準備書面で「松本は女性の同意を得ずに、性行為を強制したことは一度もない。性行為の強制を訴えるのなら、まずは被害者とされる女性を特定しないと、その女性が存在するかわからない」(日刊ゲンダイデジタル)と主張し、報道当初は合コンそのものを否定した。しかし、その後飲み会があったことは認め、今回は性交渉もあったことを認めたことになる。現在の不同意性交の法的定義では、立場が上の権力を持つ側が同意があったと主張しても、権力のない側が不同意だったと証言すれば、不同意とみなされる潮流となっているので、これは罪を認めたに等しい。
(4) かつて「鉄拳制裁星野」などという時代錯誤のファンコールが名古屋球場を埋め尽くしていたのと松本騒動の本質は変わらず、「嫌よ嫌よも好きのうち」といった男性中心の論理をいまだに信じている人が世の中に多いだけ。これは、すでに現在の常識から外れている。裁判などせずに、「時代の変化に気付かず、女性を傷つけていたことを知った」と認め、被害者に詫びて終わらせるのが一番。ビートたけし氏の忠告に松本氏も従うべき。
この間、ほとんどのメディアは被害者女性の取材もせず、「文春vs松本」裁判の見通しばかりをコメンテーターが議論するという状況で、松本人志氏とその背後にいる吉本興業寄りの報道が多数を占めていました。
私は、各局が起用している弁護士のコメンテーターの多くは、賠償金が少ない名誉棄損裁判の経験がなく、お門違いのコメントをしていると指摘しました。実際、その後いくつかのテレビ局が連絡してきて、「番組で使うコメンテーターとしてどういう弁護士がいいか」と相談され、私が推薦した弁護士に交替したケースもありました。
その後、少しは名誉棄損裁判への理解がある弁護士も出てきましたが、弁護士にとって裁判官は絶対に敵に回せる存在ではありません。ですから、裁判官の心証や、早く裁判を終結しなければならないといった彼らの立場が裁判に与える影響に深く言及し、裁判の行方を予想するコメンテーターは、ついに出てきませんでした。
中には、松本ファンと一緒になって、週刊誌があるから「些細」な悪事が報じられ,そのために才能のある人間が消えている、週刊誌にもっと高額の賠償金を支払わせろといった「被害者無視」の主張をする人も増えました。しかし今回の訴訟取り下げで、週刊誌の取材の緻密さがおわかりいただけたと思います。
「謎」が多すぎる終幕その裏側を見通す
以上、私が指摘してきたことを踏まえつつ、今回の訴訟取り下げの「謎の部分」について述べたいと思います。
まず、松本人志氏側のコメントを引用してみます。
「(前略)松本が訴えている内容等に関し、強制性の有無を直接に示す物的証拠はないこと等を含めて確認いたしました。そのうえで、裁判を進めることで、これ以上、多くの方々にご負担・ご迷惑をお掛けすることは避けたいと考え、訴えを取り下げることといたしました。松本において、かつて女性らが参加する会合に出席しておりました。参加された女性の中で不快な思いをされたり、心を痛められた方々がいらっしゃったのであれば、率直にお詫び申し上げます。尚、相手方との間において、金銭の授受は一切ありませんし、それ以外の方々との間においても同様です(後略)」
このコメントでは不同意性交をしたかどうか、性交渉を持ったかどうかも触れられていません。不快な思いをした人は不同意性交を強いられたから不快な思いをしたのに、それに触れていない取り下げコメントは、卑怯と言えるでしょう。
また、被害者が証言台に立つとまで言っているのに、「いたとしたら」と、まるで証言者の存在を無視したような表現を使うのも、法律的用語として仕方がない面もあるとはいえ、被害者に失礼です。文春側は、被害者とも協議して取り下げに同意したと言っていますが、朝日新聞などによると、被害者は「これでは自分は存在しなかったことになる」と不満を述べているようです。
あくまで私の想像ですが、まず裁判所が想像以上に早い決着を望んだのではないかと思います。双方の証人、証拠がそろったところで、松本氏側に「絶対勝てませんよ、取り下げた方がいい」という引導が渡された。「このまま裁判を進めて証言者と対決したら、傷はさらに深まる」と厳しい見方を示した。そのため松本氏は、取り下げを決意せざるを得なくなったのではないでしょうか。
一方、情報番組などでは、「文春と松本氏側で水面下の交渉があったのでは」といった推測が流れています。しかし、すでに裁判に入っているのに、被告と原告が裁判所を介さず無断で接触することはあり得ません。あくまでも裁判所を通して和解案が練られ、文春側も「早期決着しないと、判決が思っているほどいい方向にならない」などと言われた可能性があります。
しかし、水面下で話し合って双方に利益があったなどという評論や、「文春は十分売れたから、もういいと思ったのでは」といったコメントは、週刊誌の現場を知らない者の言葉です。記者は「こんな和解では証言者に申し訳ない」と、相当抵抗したはずです。少なくとも、私たちがいた時代の週刊文春はそうでした。
裁判に「秘密協定」は存在する?文春側にもあった手痛い落ち度
ただ、「慰謝料が出なかった」というコメントが本当かどうかには疑問があります。
私も現役時代に、裁判を取り下げさせたことがあります。山崎拓・元自民党幹事長の愛人問題に関する裁判でしたが、国会での醜聞疑惑質問に対しては「裁判をしているので裁判で明らかにする」と答弁しながら、一向に本人が出廷しませんでした。裁判長が声を荒らげて「山崎先生は国会で『裁判所で明らかにする』と言っているではないですか」と強く言い放ったのを見て、弁護士が「この裁判は負ける」と判断、取り下げを通告してきました。しかし文春側も、私も含めて刑事告訴まで受けていたので、簡単には取り下げを認めるわけにはいきません。
そこで「山崎氏は、複数人の前でこの記事について否定的な言葉を言ってはならない」という趣旨の誓約書を裁判所に提出することで、取り下げに合意しました。つまり、秘密協定は存在し得るのです。実際にはある程度の慰謝料を支払い、しかしそれを公表するとまた証言者がSNS攻撃を受けるので、「金銭授受はなかった」とお互いが口裏を合わせるという誓約を結んだ可能性もあります(これは全くの想像ですから、もし間違っていたら証言者の女性には失礼な発言になってしまうので、お許し願えればと思います。しかし、この程度の和解では被害者の心は癒やされないと思っているからこそ、そう考えました)。
また、文春側のミスも指摘しなければなりません。編集幹部がYouTubeに出演して「直接的物証はない」などと発言してしまったことです。この迂闊な発言が松本氏のコメントに利用されました。もともと記事には「女性は飲み会で携帯を取り上げられた」と書かれています。そういう意味で録音が存在しないことは、松本氏側もわかっていたはずです。
しかし、物的証拠とはそれだけではありません。被害者が直後に友人に被害を語っていた録音が残っていれば、物的証拠になり得ます。裁判とは、今後どんな決定的な証拠が出てくるかのせめぎ合いなのだから、裁判官とは「物的証拠もあり得ます」というくらいのやりとりはできたはずなのに、幹部の発言でそれができなくなりました。「証言者だけで判断しなければならないから、どんな判決になるかわからないよ」という早期終結の言い分を、裁判所側にあげてしまったようなものです。
訴訟の取り下げでは済まない松本氏と吉本興業の前途多難
しかし、問題はこれからです。裁判を取り下げたからといって、松本氏がそのまま許されるわけではありません。まず、不同意性交を告発する記事はいくつも出ました。裁判はそのうちの一つの記事だけを対象にしています。では、他の被害者に対してどのように説明するのか、記者会見をするのかどうか。このまま、あのような適当なコメントだけで芸能界に復帰できるとは、今のメディア事情を見る限り思えません。
また、弁護士と一緒になって「女性の名前を明らかにしろ」と裁判所に要求したことも問題です。実際にその人なのかはわかりませんが、個人名を晒された人物もいました。この人物に対して、どう謝罪するのか。これは松本氏だけでなく、吉本興業全体にも言えることです(吉本興業はファンに対して、最低でも「個人を特定する行動はやめてほしい」というコメントは出すべきでした)。
私は以前の記事で、「吉本興業は裁判所の心証が悪い」と書きました。島田紳助氏(暴対法絡み)、宮迫博之氏、田村亮氏(闇営業、しかも振り込め詐欺師たちのパーティーに参加)、そして松本人志氏(不同意性交)――。コンプライアンスという言葉はあまり好きではありませんが、世の中の常識、「これは悪事である」という標準をまったく意識しないタレントたちが続々と出てきます。
松本氏の騒動でも、当初は報道自体を全否定するというあり得ない対応でした。訴訟を取り下げたからといって、すぐ復帰はあり得ません。松本氏には少なくとも「1年以上の謹慎」といった処分は必用でしょう。また、吉本の全社員、全芸人たちに対するコンプライアンスの徹底策、再発防止策の説明も必用だと思います。
いずれにせよ裁判所は、今回の件で、裁判の早期終結、世間における不同意性交罪の認知という2つの目的は達成できたわけです。
【参考】松本人志氏裁判に関する過去の執筆記事
松本人志氏の提訴に元文春編集長が警鐘「これは相当厳しい戦いになる」
https://diamond.jp/articles/-/337738
「松本人志論争は間違いだらけ」元文春編集長が明かす、週刊誌の実情と言い分
https://diamond.jp/articles/-/338831
松本人志氏の弁論準備手続きが、決定的な敗北につながりかねない理由
https://diamond.jp/articles/-/345297
星野仙一の鉄拳制裁と松本人志問題、時代遅れの「芸風」はなぜ延々と生き続けるのか
https://diamond.jp/articles/-/347119
(元週刊文春・月刊文藝春秋編集長 木俣正剛)